コラム
マーケティング
【第1回】顧客満足度を上げても売上は伸びない ── その向上の先にある不都合な真実
2026/04/15

目次
■記事監修:黒田悠介(くろだ・ゆうすけ)
コミューンコミュニティラボ所長。2008年に東京大学卒業後、マーケティング企業2社と起業(売却済み)を経て2013年にスローガン株式会社へ入社。2015年にはフリーランスとしてディスカッションパートナーを生業とし、スタートアップから大企業の新規事業まで、主に1on1の議論を通じて立ち上げを支援。
その傍ら2017年2月に日本最大級のフリーランスコミュニティ「FreelanceNow」や、同年11月に問いでつながるコミュニティ「議論メシ」を創立。2024年3月よりコミューンコミュニティラボ所長としてコミューン株式会社に参画しコミュニティ研究家として活動。著書にコミュニティ論『コミュニティ経営の教科書』『コミュニティシフト』及びキャリア論『ライフピボット』がある。Xアカウント
はじめに(この連載について)
満足度の高い顧客がなぜ翌月に去ってしまうのか
あなたの会社の顧客満足度調査は、今期も良好な数字を示しているでしょうか。CSAT(顧客満足度)スコアは高水準を維持し、NPS(顧客推奨度)も業界平均を上回っているかもしれません。そうなればひと安心。経営会議では「顧客基盤は安定している」という報告がなされることでしょう。
ところが、翌月のレポートを開いたとき、その安心感は崩れてしまうかもしれません。
満足度調査では高評価をつけていたはずなのに、解約が出ている。クレームもなかった。問い合わせ対応への不満も見当たらない。むしろ、直前のサーベイでは「非常に満足している」に丸をつけていた顧客です。それでも、彼らは去っていく。
グローバルの調査・コンサルティング会社カンターは、2025年9月に公開したレポートのなかで、次のような事実を指摘しています。銀行業界のNPSスコアはここ5年間で着実に上昇しているにもかかわらず、チャレンジャーブランド(大手に挑戦する新興・スタートアップ系ブランド)への顧客流出は、前例のないペースで進んでいる。小売業では記録的な満足度スコアを誇りながら、売上が減少しているケースがある。こうした現象はファストフード業界や公共インフラ業界にも確認されており、カンターの調査は「満足度スコアの上昇と市場シェアの拡大は、必ずしも一致しない」という事実を複数の業界・地域にまたがって示しているのです(Kantar, “The experience paradox: why better satisfaction scores don’t always mean growth”, 2025)。
もしかしたら、顧客のスコアと行動のあいだには、私たちが思っているよりも大きな「ズレ」があるのかもしれません。では、なぜこのズレは生まれるのでしょうか。そこには、顧客満足度という概念の構造的な限界が潜んでいると考えられます。
顧客満足度とは、本質的に「期待に対する充足の度合い」を測る指標です。期待していたことが、おおむね実現されたかどうか。その答えが「はい」であれば、スコアは上がります。しかし、「期待が満たされたこと」と「その企業と関係を続けたいと思うこと」は、まったく別の感情なのです。
少し前のことですが、出張で泊まったホテルでの体験を思い出します。部屋は清潔で、スタッフは礼儀正しく、朝食も美味しかった。アンケートの満足度の欄には、迷わず「大変満足」と書きました。しかし、後日別の用事でその街を訪れたとき、私は別のホテルを予約していました。特に不満があったわけではないのに。
このホテルの例が示しているのは、「満足」はリピートや推奨の必要条件ではあっても、十分条件ではない、ということです。満足した顧客は「離れる理由がない」状態にあるかもしれないけれど、「これを使い続けたい」と思っている保証はどこにもないのです。
もうひとつ、見落とされがちな視点があります。それは「サイレントチャーン(声を上げずに静かに去っていく顧客離脱)」という現象です。
不満のある顧客はクレームを入れることがあります。一方で、満足しているけれど継続利用の意思が低い顧客は、静かに去っていきます。解約理由のフリーテキスト欄には何も記入せず、次の月からそっと使わなくなる。事前に何の予兆も見つけることはできません。だから、事後に振り返るまで誰も気づかない。これがサイレントチャーンです。
こうして静かに去る顧客こそが、満足度スコアと離脱率の数字が噛み合わない最大の原因のひとつでしょう。不満を持った顧客は声を上げ、対処されることもある。でも満足はしているけれど繋がりが薄い顧客には、そもそもアプローチするきっかけがない。「文句はないけれど、思い入れもない」という顧客の心理状態は、実は最も対処しにくいものなのです。
ここまで読んで、「では、何を測り、育てればいいのか」という問いが浮かんできた方は、問題の核心に近づきつつあります。顧客満足度は、スタート地点の指標に過ぎません。それ自体が目的地になってしまったとき、企業と顧客のあいだの関係は、「不満がない状態」で停滞してしまいます。私がこの連載で問い直したいのは、まさにその先にある領域です。顧客との関係が「満足している」という状態を超えて、次のステージへと進んでいくとき、そこで何が起きているのか。そのメカニズムを構造として理解するため、今後6回に渡って連載していきます。
「顧客との関係」を問い直そう
その前に、少し立ち止まって考えてみたいことがあります。あなたの会社は今、顧客と「関係」を築いていると言えるでしょうか。
この問いに「もちろんです」と即答できる方もいるでしょう。では、もう一つ聞かせてください。その「関係」とは、具体的にどういう状態を指していますか。購買履歴があること? メルマガを配信していること? 年に一度、顧客満足度調査を送っていること?
もしそれらが「顧客との関係」の実態だとしたら、私たちはもしかすると、「関係」という言葉を長年、誤って使い続けてきたのかもしれません。
「CRM(カスタマーリレーションシップマネジメント)」という言葉は、今やビジネスの現場に深く定着しています。この概念が広がったことで、企業は顧客データを整備し、接触頻度を管理し、チャネルを最適化してきました。それは確かな進歩です。ただ、皮肉なことに、「リレーションシップ」という言葉を冠したシステムの多くが、実際には「トランザクション(取引)の記録と管理」にとどまっている場合が少なくないのではないでしょうか。ここからは、企業が目指すべき「リレーションシップ」とはどのようなものなのか、考えてみましょう。
そもそも、人と人との「関係」とは何で成り立っているでしょうか。友人、家族、長年の同僚。いずれの関係も、ただ「会ったことがある」「連絡を取ったことがある」という事実だけで深まるわけではないでしょう。時間をかけて積み重ねた対話、互いへの関心、共有した体験や感情。そういった要素が複雑に絡み合って、「関係」は形成されていくはずです。
企業と顧客のあいだでも、これと同じことが起きているのではないでしょうか。私は、顧客との関係性には「3つの層」があると考えています。
最初の層は、取引の層です。商品やサービスを購入し、代金を支払う。この層での「関係」とは、要するに売買と接触の履歴です。多くの企業が「顧客との関係」と呼んでいるのは、実はここにとどまっていることが多いように思います。
その一つ上の層が、関与の層です。顧客が企業のコンテンツを読んだり、イベントに参加したり、SNSでコメントをしたり、場合によっては改善提案をしてきたりする。単なる消費者の立場を超えて、企業の活動に何らかの形で「関わろうとしている」状態です。この層まで到達できている顧客は、取引の層だけにいる顧客と比べて、その企業やブランドに対する関心を持っていると言えるでしょう。
そしてさらにその上の層が、共感の層です。この層にいる顧客は、その企業やブランドの世界観、姿勢、あるいは存在意義そのものに共感しています。「この会社が好きだ」「このブランドが目指していることを応援したい」という感情を持ち、積極的に他者に伝えようとする。いわゆる「ファン」と呼ばれる人たちが、ここに位置しています。
この3層を整理すると、ある事実が浮かび上がってきます。ほとんどの企業の「顧客との関係づくり」は、第1層の最適化に集中しており、第2層以降にはほとんど手が届いていない、ということです。「取引の層」しか見えていない企業と、「関与の層」「共感の層」を求めている顧客とのすれ違いと言えるでしょう。
つまり、問い直すべきは、既存施策の精度ではなく、「顧客との関係」をどう再定義するかです。
何回メールを送ったか、ではなく、顧客が自社に対してどれだけ「関わりたい」と思っているか。何人がリピート購入したか、ではなく、その購入が「惰性」なのか「意志」なのか。顧客のNPSスコアが何点か、ではなく、その顧客が自社の存在をどう意味づけているか。これらは測定が難しいこともあり、多くの企業が後回しにしてきた問いでもあります。
しかし、正確に測れないものであっても、構造として理解することはできます。そしてその構造を理解したとき、打てる手は大きく変わってくるはずです。この連載が目指しているのは、まさにその「構造を理解する」ことです。
この連載が描く6ステップ

ここまで、私はひとつの問いを立て、ひとつの仮説を提示してきました。問いは「なぜ満足度の高い顧客が去ってしまうのか」、仮説は「企業と顧客のあいだには取引・関与・共感という三つの層があり、多くの企業は最初の層にしか達していない」というものです。
では、どうすれば顧客との関係を深め、「この企業・ブランドでなければならない」と思わせる段階へと進めることができるのでしょうか。その問いに答えるために、この連載では6つのキーワードを手がかりに、段階的な構造を描いていきます。
1つの記事で1つのキーワードを中心に扱っていきます。各キーワードは、企業と顧客の関係が深まるにつれて移行していく状態を示しています。6つのステップを順に辿ることで、自社が今どの段階にいるかを見極め、次にどこに向かうべきかが自然と浮かび上がってくるはずです。
第1回のキーワードは、顧客満足度です。「顧客満足度を上げれば業績は伸びる」という通説を問い直します。CSAT(顧客満足度)やNPS(顧客推奨度)が経営やマーケティングの指標として定着して久しいですが、満足度の高い顧客が翌月には競合に乗り換えているという現象は、いまや珍しくなくなっています。満足度は必要条件であっても十分条件ではない、という構造的な限界を解剖するところから始めていきます。
第2回のキーワードは、顧客エンゲージメントです。満足した顧客が「もっと関わりたい」と感じるようになった状態を指します。しかしここでは、エンゲージメントは「上げようとして上げるもの」ではなく、「顧客の側にすでにある兆しを見つけるもの」だという視点を提示します。さらに、行動としてのエンゲージメント(購買頻度や参加率)と、心理としてのエンゲージメント(愛着や当事者意識)は、まったく別の話です。この違いを理解しないまま施策を打ち続けることが、多くの企業のリソースを消耗させている可能性があります。
第3回のキーワードは、顧客ロイヤルティです。「本当のロイヤルカスタマー」と「スイッチングコストが高い顧客」を明確に区別して考えます。また、惰性のリピートと意志のリピートは、表面上は同じ行動に見えても、まったく異なる心理から生まれています。あなたの会社で言う「ロイヤルカスタマー」は、どちらでしょうか。この問いは、少し意地悪に聞こえるかもしれません。しかし、これを直視できた企業だけが、その先のステップへ進むことができます。
第4回のキーワードは、ロイヤルカスタマーの育成です。育成ファネルという考え方そのものに疑問を投げかけます。「認知→関心→購買→ロイヤル化」という直線的なプロセスを設計しようとする発想は、顧客を「管理すべき対象」として捉えるものです。しかし実際には、人がある企業やブランドの熱心な支持者になる瞬間は、企業が用意したシナリオの上ではなく、思いがけない「余白」の中で起きていることが多い。その余白をいかに設計するか、という問いが第4回の核心です。
第5回のキーワードは、ファンマーケティングです。国内外の成功事例の「施策レイヤー」と「構造レイヤー」を分解します。成功した企業の施策を表面的に模倣してもうまくいきません。なぜなら、施策の下に隠れた構造こそが本質であり、その構造は企業ごとの文化や関係性の上に成立しているからです。真似るべきは「何をしたか」ではなく、「どんな戦略でどんな関係を築いてきたか」という部分です。
そして最後のステップである第6回のキーワードが、コミュニティです。ファンが集まり、互いにつながり始めるとき、企業と顧客の関係は新しい段階へと移行することを示します。コミュニティは、かつては「熱量の高い一部の顧客向けの施策」と見なされることが多かったものです。しかし今日、コミュニティは最も模倣が難しい競争優位のひとつとして、未顧客を含めたあらゆる顧客に向けて戦略的に位置づけられるようになっています。もちろん、コミュニティがすべての企業に有効なわけではありません。そこで、どのような事業特性・フェーズの企業においてコミュニティが機能するのかという適用条件もあわせて論じます。
この連載が描きたいのはただの施策のノウハウ集ではなく、顧客との関係性の進化という大局観です。満足からエンゲージメントへ、エンゲージメントからロイヤルティへ、ロイヤルティからファンへ、そしてファンからコミュニティへ。各段階の移行は自然に起きるものではなく、企業が意識的に構造を設計することで促されていきます。
顧客満足度という指標はどこから来たのか
ここからは、第1回の記事として顧客満足度をキーワードに考えていきます。読者の皆さんのなかには「顧客満足度」という言葉を聞かない日はない、という方もいるのではないでしょうか。それほどまでに、この指標は現代のビジネスに深く根を張っています。しかしそもそも、顧客満足度という概念はいつ、どのような文脈で生まれたのでしょうか。その来歴を辿ってみることが、この連載の問い「なぜ満足度の高い顧客が去ってしまうのか」を理解するうえでの出発点になります。
顧客満足を経営の中心に据える動きが本格化したのは、1980年代のアメリカです。製造業の競争激化を背景に、企業は「良い製品を作れば売れる」という時代の終わりを感じ始めていました。品質管理の考え方が製品から顧客体験へと拡張されるなかで、「顧客が満足しているかどうか」を定量的に把握したいという要求が高まっていきます。
そうした流れのなかで1994年、ミシガン大学のクレアス・フォーネル教授が主導し、American Society for Quality(品質管理の専門家団体)およびCFI Groupとの共同で、ACSI(American Customer Satisfaction Index:アメリカ顧客満足度指数)が設立されました。これは業種横断的に顧客満足度を測定し、経済全体の健全性を可視化しようとする試みで、顧客満足を「経営の科学」へと引き上げた先駆的な取り組みと言えるでしょう。
その後、現場レベルで普及した指標が、CSAT(Customer Satisfaction Score:顧客満足度スコア)です。「今回のサービスに、どれくらい満足しましたか?」という問いに対して5段階などで回答してもらい、「満足」「非常に満足」の割合をスコア化するシンプルなものです。計測しやすく、結果が直感的にわかりやすいため、多くの企業がカスタマーサポートや購買後フォローの指標として採用しました。
そして2003年、顧客満足度の歴史に大きな転換点が訪れます。ベイン・アンド・カンパニーのフレッド・ライクヘルドが、ハーバード・ビジネス・レビュー誌に「The One Number You Need to Grow(成長に必要なたった一つの数字)」という記事を発表し、NPS(Net Promoter Score:ネット・プロモーター・スコア)を世に送り出したのです。「この会社を友人や同僚に薦める可能性はどのくらいですか?」という一問だけで顧客ロイヤルティを測定できるとし、スコアが企業成長と相関すると主張したこの指標は、瞬く間にグローバルスタンダードへと昇格しました。

CSATで「今どれだけ満足しているか」を測り、NPSで「将来どれだけ推薦してくれるか」を測る。この二軸が、多くの企業における顧客管理の基本フレームワークになっていきました。四半期ごとにスコアを追い、数値が下がれば原因を探り、施策を打つ。顧客満足度は「管理すべき指標」として経営の骨格に組み込まれていったのです。
こうして、CSAT もNPS も、本来は「顧客との関係の現在地を把握するための道具」として設計されたはずでした。
ところが、計測が習慣化するうちに、いつのまにか「スコアを上げること」自体が目的化していった企業は少なくないのではないでしょうか。数値を上げるためにアンケートのタイミングを工夫したり、回答しやすい顧客層に絞って送付したりというケースもあるようです。これでは、顧客を理解するための指標ではなく、経営報告のための数字づくりになってしまっています。
もちろん、CSATやNPSを活用することに問題があるわけではありません。問題があるとすれば、それは「満足度が高ければ、顧客は離れない」という暗黙の前提にあります。指標が普及した時代にはそれなりの説得力を持っていたこの前提が、現在の市場環境では崩れつつある。この連載で私が問い直したいのは、まさにその点です。
顧客満足度という指標は、誕生から30年以上が経過しました。その間、市場は変わり、顧客の行動パターンは変わり、テクノロジーも変わりました。しかし指標そのものの設計思想と、それを運用する企業の発想は、あまり変わっていないのかもしれません。次のセクションでは、その古びた発想が見落としているものを、少し身近な場面から考えてみましょう。
「満足したホテル」と「また泊まりたいホテル」はなにが違うのか
ご自身の旅行の記憶を振り返ってみてください。これまでに泊まったホテルのなかで、「また行きたい」と思っているホテルがいくつかあるでしょうか。一方で、「良かった」と評価していても、特にもう一度行きたいとは思っていないホテルもあるのではないでしょうか。
この二つのホテルは、一体何が違うのでしょう。清潔さ、立地、接客の丁寧さ、朝食の質、価格に対する満足感。どれも甲乙つけがたかったとしても、記憶のなかでの重みは明らかに異なっている。この違いを理解することが、顧客との関係を考えるうえで、実は非常に重要です。
ここで参照したいのが、行動経済学者ダニエル・カーネマンが提唱した「ピーク・エンドの法則」です。カーネマンは、人間がある体験を評価するとき、その体験全体の平均値ではなく、「感情が最も高まった瞬間(ピーク)」と「体験が終わる瞬間(エンド)」の二点だけに強く影響を受けるという法則を明らかにしました。体験の長さや、途中の平均的な質は、記憶の評価にほとんど影響しないというのです。
これはホテル体験に置き換えると、非常に示唆的です。ホテルへの滞在中、スタッフが手書きのメモを添えて好みのお茶を部屋に置いてくれた瞬間(ピーク)と、チェックアウト時に名前を呼んで「また来てください」と言われた瞬間(エンド)。こうした二点が記憶の全体像を形成する、ということです。チェックイン時に少し待たされたことや、2日目の朝食がイマイチだったことは、記憶のなかでは周縁に追いやられていきます。
さらに興味深いのは、カーネマンが「体験する自己」と「記憶する自己」という概念を区別している点です。体験している最中の自分と、あとからその体験を振り返る自分は、同一ではない。体験する自己は、瞬間瞬間の感覚の積み重ねを経験していますが、記憶する自己が保持するのはそのごく一部の「印象的な断片」だけです。だとすれば、宿泊中もしくは直後の顧客満足度調査が測ろうとしているのは「体験した自己」の評価であって、再訪意向や口コミにつながる「記憶する自己の感情」とは全く別物なのです。
この視点から、冒頭の問いに戻ってみましょう。「満足したホテル」と「また泊まりたいホテル」の違い。それは、サービスの品質の差ではなく、記憶に刻まれた感情の違いにあるのかもしれません。
この仮説を裏付けるデータも存在します。コーネル大学のホスピタリティ研究センター(Center for Hospitality Research)が2004年に発表した研究によれば、ホテルにおける最も満足度の高いゲストのなかにも、次回は別のホテルへ乗り換える顧客が一定数いることが確認されています。逆に、満足度がさほど高くなかった顧客がリピーターになるケースも報告されています。研究を行ったJudy Siguaw教授らは、「顧客の満足がリピート購買を保証するという通説は、すべての顧客に当てはまるわけではない」と結論づけています。満足度スコアと再訪行動は、思っているほど強く結びついていない。この事実は、ホテル業界に限らず、多くの業種に共通する可能性があるでしょう。
「満足」と「継続」のあいだにある罠
先述の通り、「満足している顧客」と「その企業と関係を続けたいと思っている顧客」は、必ずしも同じではありません。顧客が「満足した」と答えるとき、その言葉は少なくとも二つの異なる状態を指している可能性があります。ひとつは「期待に応えてもらえた」という評価としての満足。もうひとつは「もっとこの企業と関わりたい」という感情としての満足です。前者をいくら積み重ねても、後者には自動的につながらない。
世界的な複合機メーカーのゼロックスが1990年代に社内調査で発見した事実もこの構造を裏付けています。5段階評価で「満足(4点)」とつけた顧客は、「非常に満足(5点)」とつけた顧客に比べて再購入する確率が約6分の1にとどまっていたのです。スコア上は同じ「満足した顧客」でも、行動には圧倒的な差があった。これが、1995年にジョーンズとサッサーがハーバード・ビジネス・レビューで問いかけた「なぜ満足した顧客は去るのか」という問いの核心です。
では、なぜこの溝は埋まらないのか。ここに、もうひとつ構造的な罠があります。
顧客満足度の研究を遡ると、ある有名な公式に行き着きます。消費者行動研究者のリチャード・オリバーが1980年に発表した「期待不一致モデル(Expectancy-Disconfirmation Model)」です。その核心をひとことで言えば、「満足度は、実際の体験から事前の期待を引いた差分によって決まる」ということです。体験が期待を上回れば満足が生まれ、下回れば不満が生まれる。シンプルで、直感的で、反論しにくい公式です。

この公式は、経営の現場に直ちに実装されました。もし満足度が「(体験)ー(期待)」で決まるのであれば、企業にできることは二つあります。ひとつは体験の質を上げること。もうひとつは期待値をコントロールすること。前者はコストと時間がかかりますが、後者は言葉とコミュニケーション設計の問題に収めることができます。こうして「期待値管理」が、顧客満足度を向上させるための実践的な戦術として広まっていきました。
納期をあえて長めに提示しておき、早く仕上げることで「期待以上」と感じてもらう。サービスの紹介文に控えめな表現を使い、実際の体験で「思っていたより良かった」という印象を残す。いずれも悪意のある操作ではなく、顧客体験を丁寧に設計しようとする誠実な試みとも言えるでしょう。
しかし、ここに罠があります。
期待値管理を極めれば極めるほど、顧客体験は「予測可能なもの」になっていきます。「いつも通りを少しだけ上回る」という体験の繰り返しは、やがて「いつも通り」という感覚そのものに吸収されてしまうからです。行動経済学で言う「ヘドニック・アダプテーション(快楽適応)」という現象です。期待値管理によって生み出された「期待以上」の体験は、時間とともに新たな期待値として顧客の内側に織り込まれ、次第に「期待通り」へと格下げされていく。企業が期待値管理に長けるほど、顧客の期待水準は静かに、しかし着実に引き上げられていくわけです。
企業が顧客に対して行う働きかけには、大きく分けて「マイナスをゼロにする仕事」と「ゼロをプラスにする仕事」の二種類があります。期待値管理は前者、つまり失望させない、不満を生まないことには非常に有効です。しかし後者、つまり顧客の中に積極的な感情を生み出し、離れたくないという意志を育てることには、構造的に向いていないのです。
では、その「感情を動かす体験」はどのようにして生まれるのでしょうか。
満足の先にある感情
ここまで見てきたように、「満足」という感情には、顧客の行動を積極的に動かす力がもともと備わっていません。では、顧客が口コミを広げる、友人に紹介する、競合が現れても離れない、といったとき、顧客の内側には何が起きているのでしょうか。
ひとつの手がかりになるのが、「カスタマーデライト(Customer Delight)」という概念です。感情心理学者のロバート・プルチックが1980年に発表した感情モデルによれば、デライトとは喜び(ジョイ)と驚き(サプライズ)が重なったときに初めて生まれる複合感情であり、単に「期待を少し上回った」だけでは生成されません。この整理をマーケティング研究に接続したのが、1997年にJournal of Retailingに発表された「Customer Delight: Foundations, Findings, and Managerial Insight」です。さらに1999年、ベンジャミン・シュナイダーとデイヴィッド・ボウエンはMITスローン・マネジメント・レビューで「満足した顧客が高い確率で離脱していく」事実を示しながら、デライトの源泉は期待値の超過ではなく、顧客の根本的なニーズ(安心・公正・自尊心)が満たされることにある、という独自の視点を加えました。
関連する調査として、マッキンゼーが2024年8月に発表したレポート「Fueling growth through moments of customer delight」は、観光・保険・銀行など複数業界の2万5000人の顧客調査に基づき、デライトの経済的効果を定量化しています。満足しているうえにデライトを経験した顧客は、そうでない顧客と比べてNPSが観光で28ポイント、保険で18ポイント、銀行で15ポイント高く、保険業界では、すでに満足している顧客をデライトの状態へと引き上げることができれば、年間収益が8〜12%増加しうると試算されています。さらに同レポートは、デライトの瞬間がもたらすロイヤルティと購買意向の向上は、その体験から6〜9か月間持続すると指摘しています。
このように、満足とデライトのあいだには、質的な断絶があると言えるでしょう。満足はゼロ地点です。デライトは、そのゼロをはっきりと突き破ったときに生まれるもの。そしてこの感情こそが、顧客が動く動機になるのではないでしょうか。
ただし、デライトを意図的に設計し続けることは、前節で見た期待値管理と同様の限界を抱えています。「驚き」もまた繰り返されるうちに馴化し、やがて「また例のアレか」という想定内の出来事になっていくからです。つまり、デライトは強力な感情ではあっても、それ自体を目的にしてしまうと、再び馴化という同じ罠に落ちる可能性があります。顧客との関係をより深く、より持続的なものにする感情は、別のところにあります。
それは、「関与している」という能動的な感情です。
満足という感情は、どこか「受け取る」性質を持っています。良いサービスを受けた、期待を超えてもらえた、驚かせてもらえた。どれも、企業側から何かが「届けられた」ことへの反応です。顧客はその体験を受け取り、評価し、満足したりデライトしたりする。その構造において、顧客は基本的に受け手の立場にいます。
しかし、ある段階を超えると、顧客の姿勢が変わることがあります。製品の改善点を自分から伝えたくなる。新しいサービスのリリースを心待ちにする。同じブランドを好きな人と出会うと、話が弾む。こうした状態になった顧客は、もはや「受け手」ではありません。企業やブランドの活動に、何らかの形で「関与している」感覚を持ち始めているのです。
この感覚は、満足やデライトとは根本的に性質が異なります。満足とデライトが「体験の質に対する反応」であるとすれば、この感覚は「関係性の中に自分が存在している」という感覚と言えるかもしれません。受け取るのではなく、関与している。消費するのではなく、参加している。英語で言えばエンゲージメントです。
ここまで出た顧客の感情や感覚を、三つの段階で整理してみましょう。
第一段階は「満足」です。期待が満たされた状態。不満はない。だが、次の行動を生まない。第二段階は「デライト」です。驚きと喜びが重なり、誰かに話したくなる。口コミや紹介が自然に生まれる。第三段階は「エンゲージメント」です。そのブランドや企業の一部に自分がなったような感覚。能動的に関わり、離れたくないという意志が生まれる。
多くの企業の顧客戦略は、第一段階を精緻化することに多くのリソースを投じています。第二段階を意識している企業は少し増えてきました。しかし第三段階であるエンゲージメントに意図的に働きかけている企業は、まだ決して多くないのではないでしょうか。
顧客満足度の向上は正しいアプローチのひとつではあります。しかしそれは、顧客と長期的な関係をつくるための十分条件ではありません。満足を積み上げても、その先にある感情の段階が設計されていなければ、顧客はいつか静かに、より心を動かされるデライトと関与へと向かっていくでしょう。
次回は、この「エンゲージメント」という段階を掘り下げます。満足しているのに能動的に動かない顧客と、自ら関与しようとする顧客のあいだには、何が違うのか。その問いに向き合います。


